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ROUTE22

ニッサンのレース魂。

2025.02.21

(撮影:安井宏充)

「私はレース畑の人間でしたから会社のお金を使ってばかりでした。レースはのめり込むほどにお金がかかるものです(笑)。いまはその罪滅ぼしの意味もあって、ニッサンのレース史をこの先に残すアーカイブ活動にボランティアとして関わっております」

R390 GT1で挑んだル・マン24時間レース(1997〜1998年)の総監督やSUPER GTなど日産系レースチームの総監督(2004〜2015年)を歴任したレジェンドとして知られる柿元邦彦さんのそんな言葉に、何より熱く全力でレース活動にのめり込んできた古き佳き“ニッサンのレース魂”の在処を感じた。

「NISMO 40周年」に紐づけて東京オートサロン2025の会期中に催されたメディア向けイベントでの冒頭挨拶でのことだ。このイベントは神奈川県の日産自動車・座間工場の敷地内にあるヘリテイジコレクションで開催された。基本的にはオートサロンのタイミングで日本を訪れた海外からのメディアやインフルエンサーに向けたもので、ボクは午前の日本人メディア枠に呼んでもらった(磯さん、ありがと ♡)のだけれど、ともあれこれがかなり贅沢な時間で本当にありがたかった。何がそんなにありがたかったかと言えば、ボクが呼ばれたのは午後の外国人枠のウォーミングアップ的な時間帯で参加者は驚くほど少なく、柿元さん、そして現・日産SUPER GTチームの総監督を務める木賀新一さんというニッサンのレース(モータースポーツ)活動における新旧“ボス”のお二人をほぼ独占状態にして、ニッサン系レース車両の長く色濃い歴史の中身を貴重な実車たちを前にしてレクチャーしてもらえるという、この上なく贅沢な時間を1時間近くも過ごせたのである。

ヘリテイジコレクションの解説ツアーをこの豪華極まるメンツをほぼ独り占め状態で堪能してしまった。日産アーカイブスの柿元邦彦さん(元・日産系レースチーム総監督)、真行寺茂夫さん、日産SUPER GTチーム総監督の木賀新一さん、NISMOの商品戦略・企画部でCPS(チーフプロダクトスペシャリスト)を務める饗庭貴博さんという面々。あまりに豪華すぎて恐縮でした。この機会を設けてくださった磯さんはじめ日産自動車関係者の皆様、心より感謝です。

「最初は豪州ラリーです。当時(1950年代)は何より壊れないこと、耐久性や信頼性を高めることにクルマ作りの価値を見出していましたし、海外勢との仕上がりの差を探る意味でも過酷な環境で長い距離を走破するラリーは打ってつけだった。のちにNISMOを立ち上げて初代社長になった難波(靖治)さんがドライバーとしても参加して今に繋がる礎を築きました。監督は片山(豊)さん(フェアレディZの生みの親)でしたね」(柿元さん)

ニッサンのレース史は戦前にまで遡ることができる。1936年(昭和11年)にダットサンNL-75/76で参戦した多摩川スピードウェイの「全国自動車競争大会」がその原初で(ここにはかの本田宗一郎氏もカーチス号を参戦させた)、そこから第二次大戦を経て1958年(昭和33年)にニッサンは2台のダットサン1000セダンの210型(英・オースチンのノックダウン生産で得た技術を投入した純国産車の110型を大幅に改良して1957年にデビュー)で「豪州一周モービルガストライアル(豪州ラリー)」に参戦した。19日間をかけてオーストラリア大陸の外周1万6000km(そのほとんどがマッドマックス級の過酷な荒野や砂漠を走るコースで合計67台が参戦、完走は34台)を見事に走破した富士号(クラス優勝/総合25位)と桜号(クラス4位/総合34位)。今回、富士号は他所での展示でお留守だったけれど桜号は間近でじっくり見ることができた。

“桜号”のボンネットには桜の枝が手描きされていた。“NISSAN MOTOR Co. TOKYO JAPAN”のレタリングも手描きで時代を感じる。ニッサンが参戦した国際レースは1958年(昭和33年)の「豪州一周モービルガストライアル(豪州ラリー)」だった。

ともあれボクは目の前にある桜号の佇まいに見惚れた。単なるちっぽけな3ボックスのセダンでまったくレーシーでもないのだけれど(とはいえ後付けのドライビングライトがよき雰囲気)、逆にこんな小さな日本車(排気量は988ccで最高出力は34ps)でオーストラリア大陸を舞台とした大冒険に挑んだという事実に心打たれたし、ボンネット&トランクフードに手描きされた桜の枝には、戦後の急速な復興期を逞しく駆け上がってきた昭和の男たちの“その先の世界”を見据えた、それは粋で芯ある心意気までを感じたのである。

「アーカイブ活動の一環としてコレクションにある車両を社員有志たちの手で毎年1台のペースで再生するプロジェクトがあります。この桜号もその活動の中でレストアされた1台。レストアと言っても綺麗にし過ぎるのではなくって、当時の状態(レースカーならレース後の状態)をきちんと残すことを意識して取り組んでいます」(木賀さん)

ニッサンのヘリテイジコレクションは現在、トータルで500台を所蔵、展示で280台とされていて、基本的にはそのすべての動態保存を目指しているという。とはいえそれらをどこまで“完璧”な状態で保存できるどうかは、さまざまな要素や状況も絡んでくるのだろうし困難だって多いはずだ。

再生プロジェクト(正式名称は『名車再生クラブ』)はあくまでも有志(ボランティア)の日産自動車社員たちが再生したいクルマ、すなわち好きなクルマ(やはりレースマシンが多いらしい)を話し合いで選び、週末の業務時間外を使って再生作業に当たるもので、自身もこの活動の牽引役を担っている木賀さん曰く、「ウチの社員はクルマ好きばかりだから毎年有志の募集には各部門から多くの手が挙がる」のだという。確かに、歴史的なラリーマシンやレースカーを自分たちの手で再生できるのだから、そこに「我こそは!」と多くの手が挙がるのは当然だろう。

「好きなことをやる。それがこの再生プロジェクトの目的です。『好き』という気持ちがあるからこそ業務時間外でも取り組めるし、より素直な気持ちでニッサンの歴史の中身と向き合うことができるんだと思います。そうした意味で非常に趣味性が高い活動なのかな」

1970年のサファリラリーを制覇したP510型ブルーバードをはじめ、栄光の時代(ラリーのニッサンと呼ばれた時代)を築いた歴代のラリー車が並ぶセクションで一際目を惹く存在だったのは、1971年のサファリラリーの総合優勝車であるHS30型の「ダットサン240Z」。過酷なラリーを走破した車体は“ボッコボコ”と形容するのが正しい姿のままで敢えてレストアが施されているのだから面白い。よく見れば他のラリー車もかなりの勲章持ちばかり。

「傷や凹みだって歴史の大切な一部ですからね。我々はそういうモノやコトの意味までを一つひとつ理解しながら、より正しい姿でこの先へと動態保存したいという思いでこの活動に取り組んでいます。あ、私はSUPER GTの仕事もあるから最近は週末の予定がほとんど埋まっていて、アーカイブ活動に費やせる時間が少なくなっているのが残念なんです」

そう言ってとても悔しげにする木賀さんの表情には、「本当にクルマが、何よりニッサン車が好きでこの活動をやっている」という真っ直ぐな気持ちが現れていて素敵だった。

日産SUPER GTチームの総監督を務める木賀新一さん。日産自動車の社員有志とOBで形成・活動する「名車再生クラブ」の牽引役でもある。ここでは書き切れないほどいろいろ面白い話を聞かせていただきありがとうございました!

“ハコのニッサン”が好き。

ニッサンのレースカーと言えば“ハコ車”ばかりが頭に思い浮かぶ。スポーツプロトタイプ、Cカー、GT1辺りは純粋に“ハコ車”と呼ぶにはレベルが違う(要は生産車からはかけ離れ過ぎていて…)気がしなくもないが、少なくともフォーミュラのイメージはニッサンの“ヘリテイジ=遺産”の中にはない(ごめん、フォーミュラEは個人的にバッサリ除外!)。実際、コレクションを見渡してみてもハコ車のオンパレードであってそこはどこかポルシェの立ち位置(数年前にポルヘッドVの取材で訪れたポルシェ・ミュージアムの秘密の保管庫“LABO”には、歴史的なハコ車ばかりがズラリと並んでいた)に近いと感じる。

ともあれプリンス・スカイラインGT(S54A-1型)とポルシェ904カレラ GTSとの伝説だとか、古(いにしえ)のプロトタイプレーサーたるR380のエンジンがその後のスカイラインGT-R(ハコスカ&ケンメリ)のエンジン(S20型)として活かされた云々だとか、あとは“スーパーシルエット”として一世を風靡したシルエットフォーミュラ/グループ5やグループCの躍進(1992年のデイトナ24時間でのR91CPの総合優勝が個人的にはハイライト)、さらにはR32 GT-RのグループA(JTC)での圧勝劇といった数々がニッサンの“ハコ伝説”を今も揺るぎないものとする強固な芯となっていることは確かだ。そしてこうした“ハコのニッサン”のイメージこそが、ボクらクルマ好きのハートを真っ直ぐに射止め続けてきたこともまた、事実だと思う。

“壊れないクルマ/マシン”を作るというのは生産車においてもレースカーにおいても共通する大切な“ものつくり”の要素となるが、レースカーは生産車に比べてより“攻めた領域”にまで踏み込める。かつて柿元さんが陣頭指揮を執ってル・マンに挑んだR390 GT1は、初年度はポールポジションを獲るもギヤボックスの不具合で肝心の24時間レースでは良い結果は残せなかったが、翌年はいろいろと突き詰めてその雪辱を晴らし見事総合3位(日本人だけでのドライブとしては当時の史上最高位)、その他のマシン(計4台が参戦)もすべてトップ10圏内での完走を遂げている。

「あのときは生産車の開発部隊が主軸となって24時間シフトチェンジをし続けても壊れないギヤボックスを作ったんです」と柿元さんが当時を振り返り教えてくれた。

ニッサンのレース(モータスポーツ)史のリビングレジェンド、柿元邦彦さん。390 GT1との2ショットは感涙モノでした。

その昔はレースで技術開発を突き詰めて生産車へとそれを落とし込むことが多かったけれど、390 GT1での2年目は生産車の技術や思想がル・マンという舞台で活きた。しかし、一方では壊れないギヤボックスにするための諸対策(剛性アップや素材の見直しギヤの肉厚化などに加えて冷却性なども徹底して見直した)の結果として重量が増して速さはどこかでスポイルされてしまった。それが、総合3位に留まった要因だったという分析もある。

「やはり、生産車とレース車とでは開発に対する文化の違いというのは少なからずある。そう考えると、今は双方の良さを踏まえて互いに活かし合う時代です」(柿元さん)

“身近な熱さ”がニッサンらしさ。

「あっ、400Rだ!」とスキモノならば思わず叫ぶ、まるでツチノコのようにレアで貴重で、そして何よりニッポンのクルマ好きとして誇るべき存在がR33 GT-R(BCNR33)のVスペックをベースにNISMOが手掛けたコンプリートカー、400Rである。

「バブルの崩壊と共にグループC やグループA といったカテゴリーが次々と消滅して、ニッサンのレース(モータースポーツ)活動も苦境期を迎えた時期にNISMOのコンプリートカーは生まれました。この頃(1990年代中頃)はTRDさんやMAZDA SPEEDさんもこうしたコンプリートモデルを東京オートサロンに出展する流れがありましたね」

伝説の和製コンプリートカー、NISMO 400RとPENZOIL NISMO GT-R(BNR34)との貴重な2ショット。

NISMOの商品戦略・企画部でCPS(チーフプロダクトスペシャリスト)を務める饗庭貴博さんがウルトラレアなイエローボディの400Rを指してそう説明する。ちなみに彼の父親はあのR380の開発チームに在籍していたのだとか。親子2代でニッサンのハードコアな部分に携わっているとはなんとも素敵な話である。

NISMOのコンプリートカーは1994年のS14シルビアをベースとした270Rに始まり、400Rは1996年にコンプリートされた。ターゲットパワーはベースのBCNR33の280psに対して400psとし、サーキットだけではなくストリートでも乗りやすく、そして芯のある速さと操縦性を両立させることが開発目標 (当初、NISMO内ではサーキットスペシャルとして開発する方向性も模索したらしい)とされた。そう、チューナーが作るタイムアタックマシンのように一点突破型の速さやパワーを追い求めるのではなく、“メーカーワークス”だからこそのトータルバランスがそこに徹底して追求されたのである。その参考としたのがAMGやアルピナ、ルーフといった欧州のコンプリートカーだったことは言うまでもない。

搭載されるエンジンは2.6ℓから2.8ℓへとボアアップされた「RB-X GT2」。N1レース用のメタルタービンをはじめモータースポーツ活動でNISMOが長年培ってきた技術が隅々まで注入されたコンプリートエンジンは、R32 GT-R グループAのエンジンも手掛けた名匠、日産工機/レーニックの元で手組みされ、「RB-X」は日産工機内におけるLMやGTカー用の2.8ℓエンジンの呼称だというからそれだけでも十分にそそられる。400Rは当時の日本車としてはかなり高価な1200万円というプライスタグを掲げ99台の限定数で発売。最終的には55台が販売されたという記録が残る。ちなみに現在のコレクタブルマーケットでのプライスは2億とも3億とも、場合によってはそれ以上とも言うから、出来ることならタイムスリップして当時売れ残った(オーダーされなかった)44台分を買い占めたい。

そしてもう1台。Z33をベースとした380RSの姿もこの日はあった。2007年に登場した限定300台のコンプリートカー「Version NISMO Type 380RS」は、SUPER耐久でポルシェを撃破することを目標に投入された「Version NISMO Type 380RS-Competition」用に3.5ℓから3.8ℓへとボアアップされたレース専用のVQ35HRエンジンをストリート用にディチューンして搭載したモデル。“ディチューン”とは言ってもその中身は徹底して磨き上げられていて“レース屋NISMO”の本気が存分に込められていると理解できる。

VQ35HRエンジンのストロークを7mm延長して3.8ℓ化。S耐レース用のエンジンをストリート用にディチューンして載せたのが「Version NISMO Type 380RS」である。インテークマニホールドやエキゾースト、そして空燃比や点火時期などをストリート仕様へと最適化するディチューンとはいえ、ムーヴィングパーツは素材(ピストンは高強度のアルミ鍛造)からすべて見直され、カムシャフトのカムプロフィールやバルブリフト量、バルブスプリングなどもレース用と同様とされた。当時の価格は539万円。一般のファンでもどうにか手が届くプライスとしたところにNISMOの良心を感じる。ちなみに現在の中古マーケットでも暴騰はしておらずある程度タマもあるから今が狙い目かもしれない。

「レース用エンジンが基ですからメカニカルノイズもノーマル生産車と比べれば盛大です。でも、お客様からのクレームは一切出なかったと聞きます」と饗庭さんは誇らしげに言う。

“ニッサンのレース魂”は常にユーザーやファンと共にある。それが遥か遠くの世界のものではなく、あくまで“ハコ車”というより多くのクルマ好きが日常でも手にできる領域での“最良・最高・最強”だからこそ、皆がそこに夢を描きより身近な憧れを抱いたのだと思う。

いま、NISMOのロードカー(2013年以降はコンプリートカーではなく正式なカタログモデルとなった)たちにその精神は引き継がれている。それこそポルシェのGT3やBMWのM的な存在として、NISMOがこれからも多くのクルマ好きの憧れであり続けてほしいと願う。

なんだかここ最近のニッサン周辺は大変そうな話ばかりでさすがに心配にもなるけれど、ヘリテイジコレクションで触れた“ニッサンのレース魂”はそのどれもがリアルに熱かった。

そう、こと“熱さ”においてニッサンは昔もいまも変わらないのだと信じたい。

ニッポンが誇る“ハコのレース屋” ――その熱き魂を失わずに頑張れ、ニッサン!